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岸岳城(岸嶽城・鬼子岳城)






☆訪城日 平成16年5月
☆遺 構
  • 連郭式山城 
  • 石垣 堀切 竪堀 井戸 
☆駐車場・その他 無料駐車城が、北波多村側城山下にあります。
城までは、北波多村徳須恵交差点より、要所に案内板があります。

城周辺にはトイレが無いので、麓の国道202号線沿いにある、コンビニを利用する方が良いでしょう。
☆歴 史 上松浦地方の松浦党の中心勢力である波多氏の居城。

平安時代末期に、源頼光の四天王の一人渡辺綱の曾孫、源新太郎久(ひさし)が、肥前国松浦郡宇野の御厨検校(みくりやけんぎょう)となり、検非違使(けびいし)に補任されて下向したと言われていますが、その久の次男持が、三男勝の所領波多郷を分与された際に、波多氏を名乗り、岸岳に築城したと言われています。

以後波多氏は、鶴田・相知・石志・佐志・有浦・値賀・呼子・名護屋等の、多くの松浦党に属する豪族達の中心として、17代三河守親(ちかし)公まで続きました。

三河守親公は、肥前国高来郡領主有馬晴純公の実子と言われ、平戸松浦氏に対抗する為波多氏に送り込まれました。
1587年(天正15年)豊臣秀吉公の九州征伐に際し、参陣を果たさず改易の危機に面しますが、鍋島直茂公・浅野長政公の尽力で、本貫地750町を安堵され、一地方豪族として存在を認められました。

しかし鍋島直茂公の寄騎として出陣した朝鮮出兵中、直茂公の命に従わず進軍しなかった事を怯懦の振る舞いとし、秀吉公の逆鱗に触れ(おそらく厭戦気分に対する見せしめか、名護屋周辺を直轄地にする為)、1593年(文禄2年)5月三河守親公は領地没収、筑波に配流されてしまいました。

筑波配流には異なる伝承が伝わっています。
親公の妻である秀の前(龍造寺隆信の娘)が、親公の朝鮮在陣の留守中に名護屋に呼び出され、秀吉公の伽を拒んだ事が、秀吉公の不興を買い、配流になったというものです。

さて波多氏の旧領は豊臣家蔵入地に編入された後、寺澤志摩守広高公に与えられました。広高公はここを支城とし、姉婿の今井新右衛門に預けました。その後元和の城割令によって破城されたと見られ、城のあちらこちらにその痕跡が残っています。
☆見 所(写真クリック)
城は、岸岳(標高320m・比高314m)の細長い尾根上に、波多氏時代の縄張りを基本にして、寺澤氏時代に石垣に改修された曲輪が、繋がって存在します。

駐車場から案内板に従って歩き始め、途中より急な斜面のジグザクした道を登りきると、左に行けば旗竿石、右へ行けば主郭部へと続いています。ここでは晴れた日は必ず旗竿石へ行く事をお勧めします。

主郭部では「二の丸」と「三の丸」との間にある堀切、大手門周辺の佐里櫓跡、「三佐衛門殿丸」にある高石垣、「水ノ手曲輪」と一段上の帯曲輪の高石垣は、今でも良く遺構が残っています。
また旗竿石同様、佐里櫓跡からの見晴らしは、晴れた日に素晴らしいです。

さて「三佐衛門殿丸」より先にある姫落し、ここの見晴らしも必見。
この姫落しは、波多氏内訌の折、後の親公である藤堂丸を抱いた16代盛公後室が、大傘を広げて飛び降り逃げた場所とも、心月姫(親公最初の妻、龍造寺隆信公に無理やり離縁される)が、落ち延びた場所とも言われています。

また曲輪跡や一帯の山野にある小型の五輪塔や宝印塔は、「岸岳末孫」(きしたけばっそん)の墓と言われ、粗末に扱おうものなら、急激な発熱を生じ病に伏せると言われています。
これは秀吉公に恨みを込めて亡くなった波多氏一族が、成仏出来ずにいる為と言われており、今でも大切にされています。

左の写真は「二の丸」と「三の丸」の間の堀切
☆参考文献
  • 木島孝之著 城郭の縄張り構造と大名権力 P191〜P195
  • 吉永正春著 九州の古戦場を歩く P221〜P229
  • 佐賀県の歴史散歩 P213〜214
  • 朝日百科 日本の歴史別冊14 環日本海と環シナ海 P70〜72


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